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浦和区
 
 
   
       
 
   
 
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浦和区の歴史・観光
 住まい探しを始める準備の一つとして、これまで住み続けてきた家の建替えや、其々の地域に土地勘のある方は別として、新たに新築一戸建て購入を考えている方の前情報として、その地域の歴史や先人たちの日々の暮らしぶり、そして、住環境等を知っておくことも大切なことだと思います。

そのため、各地域ごとに先人達の足跡を調べられる限り書き綴ってみました。

少しでも家探しの参考にしていただけると幸いです。
     
◆歴史探訪!

縄文期、東京湾の水が入り込み市域の半分以上が海面下にあり、人々が住み始めたのは1万数千年前からといわています。

海の水位が下がるまでは、高台の地域に比べ住み安さは遅れたのかもしれませんね?

生産力の高まりとともに余剰生産物の交易が盛んになり、大門・野田・浦和に市が誕生し始めました。

徳川家康が関東に入府すると浦和郷は岩槻城主高力清長の領地となり、家臣中村吉照が代官となり、針ヶ谷には陣屋がありました。

家康は浦和近辺によく鷹狩りに訪れ、浦和宿に御成御殿(いまの常盤公園)を置き、寛永期には紀伊徳川家の御鷹場も置かれました。
 
1603年に徳川幕府が成立すると、高力氏の支配は終わり、市域は代官支配や旗本知行地に分れていきました。

中山道が整備されると浦和宿とされ、本陣・問屋が置かれ、明治22年まで星野家がこの役についておられたそうです。

明治2年浦和県庁、同4年埼玉県庁が置かれ、以降今日まで県都として発展してきました。

明治16年浦和駅が開設され、昭和7年には京浜東北線が開通し、昭和11年北浦和駅開設。昭和36年南浦和駅開設と順次新駅がつくられました。

昭和48年には武蔵野線も開通し現在の鉄道網の形が出来上がりました。

浦和には大きな戦乱もなく、有力な豪族も生まれなかったため、とても静かな平和な町でした。

江戸期は幕府の直轄領や旗本領で、江戸を取り巻く軍事上の緩衝地帯の性格を併せ持っていたようです。

時々 浦和は個性のない街という人がいますが、「平和的な歴史のまち」 これ自体が堂々とした個性だと思います。

県都となり、この平和な歴史が文教都市のイメージを醸成する間接的要因となり、市民各々が持つ個性と多様性が浦和の特色と言えるのかもしれません。

浦和の核は県庁であり、県庁所在地であるが故に政治・経済・教育・文化の中心でありえています。

浦和という地名については、いくつかの説があるそうですが詳細は不明とのことです。

歴史上にその名が見られるのは、日光輪王寺所蔵の大般若経に「武州浦和」とあるのが初見だそうです。

江戸時代、五街道の一つ中山道の宿場町となり、現在の常磐に本陣・脇本陣が置かれ、また毎月二と七のつく日に市が開かれる「二・七の市」が盛んになるなど、宿場町としての体裁が整っていきました。

明治時代になると、この地域は武蔵県、大宮県を経て、明治2年浦和県となり県庁が鹿島台に置かれたそうです。

さらに廃藩置県後、浦和県は岩槻県、忍県、小菅県などと合併し埼玉県となりました。
そして、当初 県庁は岩槻と定められたそうですが適当な施設がなく、浦和の施設がそのまま用いられ、さらに諸施設が設置されるようになり、浦和は県都としての機能を強化していくことになったわけです。

明治6年、教員養成機関として学制改正局(埼玉大学教育学部の前身)が浦和宿本陣内に置かれ、翌年には埼玉県師範学校と改称されたそうです。

明治9年には医学校が開設された。さらに、県立浦和第一尋常中学校、県立浦和高等女学校、官立浦和高等学校などが次々と開校され教育施設の充実が進み、全国から優れた学生が浦和に集まるようになり、行政の中心という特性とともに、「文教都市浦和」としての地位も確固たるものになり現在に至っています。

国道17号線の開通など道路交通網の整備により、都市化の勢いは駅周辺から郊外まで広がりをみせることになっていきました。

戦後は、日本の高度経済成長とともに、市内に大規模な団地などが建設され、東京への通勤者の激増により、東京の衛星都市としての性格を強める一方、県都としての基盤整備が着実に進められていくことになりました。

昭和40年代に入り、新大宮バイパスや武蔵野線などの開通により、市域の交通網や都市施設の整備が一段と進み、旧中山道を中心とした商店街やオフィス街、北浦和駅前、南浦和駅前なども近大的なビル街に様変わりし、商業活動の面でも活発化していきました。

浦和に県庁が置かれて約一世紀の昭和56年4月、浦和駅西口の改造が完了し、新しい浦和の玄関が完成しました。

昭和60年には埼京線が開通し、武蔵浦和駅、中浦和駅の2駅がつくられました。

平成13年に地下鉄南北線から延伸した埼玉高速鉄道線が開通し、浦和美園駅が開設され、市域の鉄道交通の利便性がさらに増しました。

こうした交通網の整備が進む一方、埼玉県の行政・文化の中心である県都浦和市のさらなる発展を図るため、「中心市街地整備構想」を策定し、魅力と個性ある一体的な都心地区の形成を推進するため、浦和駅東口・西口再開発事業や浦和駅の高架化、周辺街路の整備などを現在進めています。

浦和は「サッカーのまち」としても有名ですが、埼玉サッカーの発祥である埼玉県師範学校及び卒業生OBの活躍、昭和20年~50年代にかけては浦和高校、浦和西高校、浦和市立高校、浦和市立南高校が次々と全校大会で優勝を遂げ、その名を全国に轟かせました。
中でも、浦和市立南高校は、単独高による全国初の三冠王にも輝いています。

Jリーグの発足に際し、浦和レッドダイヤモンズ(通称 浦和レッズ)のホームタウンとなり、サポーターの熱狂的な応援でも知られています。


◆観光・グルメ情報 !

今から5000年くらい前の縄文時代は、温暖化の影響で(空も奇麗だったはずの昔は何が原因で温暖化?)関東平野の多くの地域が海だったようです。

浦和地区も大昔は大半が海だったそうで、昔は浦曲とか浦回(どちらもうらわと読む)などと書いていたようです。

江戸時代には沼地が多く、魚釣りなどを楽しむ行楽客で賑い、訪れた人達に沼地でとれたうなぎを出したのが始まりで、味の良いことが大変評判となったそうです。  

大正時代の半ばに水田耕作が盛んになると、沼地が減り地場のうなぎもいなくなってしまったそうですが、現在でも伝統の味は受け継がれています。

この地域が、蒲焼きの発祥の地ともいわれており、さいたま市の名物として親しまれ、うなぎ専門店も数多く軒を連ねています。

うなぎは良質なタンパク質やカルシウム、ビタミンA・Eを豊富に含んでいるそうです。

ガンにも効果を発揮するといわれるビタミンAは、豚肉や牛肉の約160倍もあり、老化防止や成人病に効くビタミンEは牛肉の約10倍、骨をつくるカルシウムは牛肉や豚肉の約70倍、さらに脳の働きを活発にすDHAも豊富に含まれるなど、スタミナアップに最適の食品だそうです。


   うなぎは、まさに食べ物中のスーパー健康食品ですネ!!


昔から、夏の暑い時期に土用のうなぎを食べると夏バテしないと言われますが、栄養学などない時代に効能がわかるという、人間の英知ってすごいですね。


    『うな重が食べたくなってきました~!』



 
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